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help RSS Hommage 『ヒカルの碁』 太極之譜 7-4

<<   作成日時 : 2010/07/30 00:08   >>

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 明けて2003年。塔矢邸は元旦から来客で賑わっている。門下の棋士達や
日・中・韓国棋院の関係者などなど。
 そうした喧騒から逃れるように、アキラは2日、祖父由雄の家にいる。

「いいのかい?家の方は」 ちょうど年始の挨拶に来ていた白川が聞いた。
「ボクはいない方がいいんだ。みんなに余計な気を遣わせてしまうし。だけど、
ちゃんと取材は受けたよ。父とは別にね」
「なるほど。先生は先生、アキラ君はアキラ君か」 白川はうなずいた。

 なんでも行洋とワンセット、そんな生活はもう終わったのだ。

「教室の方はどう?」 アキラは由雄に尋ねた。
「うむ。白川君のおかげで順調だよ」 由雄は嬉しそうに杯を口へ運ぶ。
「近々、大人の教室も開くかもしれないよ。せっかく先生が手を入れて下さっ
たんだし、結構要望もあってね。寿司屋の大将が来ると言うし」

 以前、由雄は自宅の和室で子ども達に教えていたのだが、手狭なうえに使
い勝手が悪いということで、1階と庭の一部を改装して対局室にしてしまった。
 昨年の梅雨ごろ、由雄が喜々としてリフォームに取り掛かったとき、明子は
驚いて 「でも、白川さんのご迷惑じゃないかしら・・・」 と心配していたのだが、
当の白川は 「これで僕も後には引けなくなったよ」 とアキラにウィンクして見
せた。
 そんな白川の茶目っ気に吹き出しつつも、アキラは申し訳ないような有り難
いような気持ちでいっぱいになった。新しい場所はさほど広くはないが、椅子
に座って対局ができる。これなら、足腰が悪い高齢者にも利用しやすいだろう。
ただ、大した収入にもならない教室を抱えて、白川がますます忙しくなってしま
うと気がかりだった。

「大丈夫だよ。かえって気力十分。忙しいくらいの方がやりがいがあるから」
「棋聖戦、楽しみにしてます」 「キミの代わりに倉田君を撃破するよ」

 そう言って白川は笑った。3次予選決勝でアキラは倉田に負けたのだ。

 そうして迎えた1月中旬の木曜日。この日、ヒカルとアキラは十段戦3次予
選の決勝戦に臨んだ。勝ち残った13名が最終予選に進む。一方、白川は棋
聖戦最終予選の一回戦だ。

「やぁ、進藤君。調子はどう?」 白川がヒカルに声を掛けた。
「もうバッチリ。勝てば最終予選!ガンバらないと」 笑顔で気合を入れた。
「ハハハ、そうだね。キミと塔矢君の対局、実現するといいね」
「白川さんもリーグ入り、もう目の前だから」
「うん。あと3勝、頑張るよ。進藤君もね」 白川もヒカルを励ました。

 ヒカルは対局場に入ると、すでに着席しているアキラの方へと視線を向けた。

   《アイツだけじゃない、オレだっているさ。負けねぇ、絶対に勝つ!》

 ビーッ 午前10時。棋院の対局場に開始のブザーが鳴り渡った。

 
 その日、首尾よく勝利を収めた後、アキラは語学教室へと向かった。今日は
申との中国語のレッスンだ。
 申に教わるようになって8ヶ月。アキラの努力と申の熱意で、もう殆ど日常会
話に不自由しないほどになった。指導碁をしながらのレッスンという話だったが、
盤面に向かう時間は半分くらいだった。申は台湾や中国の棋譜を取り寄せて、
それを教材に検討をしながら言葉を教えた。アキラも珍しい棋譜への興味から
ごく自然に言葉を覚えた。その他にも、申は自前で色々な機会を提供した。人
気の歌手のCDをかけて歌詞を聞きとったり、映画のチラシを眺めたり、時には
行き付けの台湾料理店で食事をしながらメニューを覚えたり、店の従業員との
会話に挑戦することもあった。

 アキラはいつものように奥の小部屋に入ると、脇の戸棚から碁盤と碁笥を取
り出して机に置いた。しばらくすると 「遅くなって申し訳ない。今日は冷えるね」
と詫びながら、申が入って来た。「こんばんは。晩上好 」 挨拶が済むと、会話
はおおむね北京語だ。申はコートを脱ぐと、ソファに向き合って座った。

「もし良かったら、今日は一局お願いしてもいいですか?」 申が言った。
「ええ、もちろん。時間ならありますよ」 申は頭を下げて3子を置いた。

 そうして2人は打ち始めた。申はアキラの予想どおり、欧州風の力碁を打つ。
アキラ相手にも序盤からグイグイと攻めてくる。3子の強みを十分に活かす力
もある。それが中盤以降の粘りに繋がらないところが、また欧州風と言えば欧
州風と言えるだろう。
 しかし、指導碁と言っても気は抜けない。これだけの相手に3子なら、自ずと
勝負の様相が濃くなる。日本なら、アマの県代表以上の棋力がある申だ。

「今日はじっくりといい碁でした」 打ち掛けで終わってアキラが声を掛ける。
「うまく打たせて貰いました。左辺がいけないとは思ったんですが・・・」
「そうですね。しいて言えば、ここのハサミはよくありません。つまり・・・“厚み
を囲うな” ということですが・・・」 パチパチ。 
「そこがプロの発想ですね。わかっていても、それが実戦ではなかなか」 
「ええ、ここは例えばこう打ってカカエ、そこからシチョウとなっても難しいので、
黒はこうハネてから」 パチパチ。 「あ、そうか!じゃぁまずアテて・・・」
「そうです。さすがに申さんですね。では違う手筋をやってみましょう」 

 アキラは満足そうに言った。申は呑み込みが早い。自分の北京語よりも申
の碁の方が伸びが良いのではないか、とアキラは思った。

「しかし、どうも我慢が続きませんね。私の一族はみな冷静さが取り柄なのに、
私はダメなんですよ」 申がガッカリという様子で言った。
「申さんのお身内はどういう方々なんですか?申、という名字はあまり聞かな
いような気もしますが・・・」
「そうですね、あまり無い名字ですよ。申の家はもともと大陸の出身なんです」

 申は盤上の石を碁笥に戻しながら話し始めた。このところお互いに打ち解け
て、少し突っ込んだ話題になることもある。

「第2次大戦が終わってから、申の一族はチアン・チョンチェンと一緒に台湾へ
移り住んだんです」
「チアン・チョンチェン?」 アキラは聞き返した。もう北京語は限界だ。
「蒋中正。日本では蒋介石と言うんでしたね。戦前の国民政府の主席ですよ」

 「しょう・かいせき」 と聞いてアキラもようやく思い当たった。のちに台湾・中華
民国の初代総統になった軍人政治家である。

「私の曽祖父は北京の紫禁城にあった故宮博物院の関係者だったんですが、
1933年、日本軍の侵攻を受けて、蒋介石の政府は博物院の所蔵品を南京に
疎開させることにしたんです。それで曽祖父は所蔵品と共に南京に移り、その
後、国共内戦に敗れて南京を脱出する際、一族揃って台湾へ移住したんです」 
「そうだったんですか・・・大変なご苦労をされたんですね」

 白川の勧めで読書をしていて良かった、とアキラは思った。この程度の歴史
なら、なんとか話について行ける。確か・・・とアキラは記憶をたぐる。
 大戦中は抗日で協力した国民政府と共産党だったが、戦後、大陸での覇権
をめぐって内戦に突入し、毛沢東に敗れた蒋介石は台湾へ逃れたのだった。

「南京に疎開させてあった所蔵品は、日本軍の攻撃を避けて別のところへ移さ
れていたんですが、大戦終結後にまた南京に戻され、その中から特に優れた
ものばかりを厳選して、およそ3千箱に梱包したんだそうです」
「3千箱 !? すごい量ですね。では、曽祖父の方はその作業にあたられたんで
すね?」 
「ええそうです。蒋介石は台湾へ渡る際に、それらの所蔵品や巨額の外貨、金
塊などを持ち出したんです。だから、もともと大陸にあった素晴らしい芸術作品
の数々は今、台湾の国立故宮博物院にあるんですよ。それが結果的に、あの
文化大革命での破壊から作品を守ることに繋がったんですから、何とも皮肉な
ものです」

 1960年代後半から1970年代前半にかけて、中国では文化大革命と称し
て共産党指導層による大規模な権力闘争と粛清が行われた。資本家を始め
文化人、知識人が次々と弾圧され、犠牲者は1千万人とも言われている。
 吹き荒れる暴力の嵐の中で、貴重な文化遺産も蹂躙され、ことごとく破壊さ
れてしまったのだ。
 アキラもおよそのことは知っていたが、「まぁ、あのまま大陸に残っていても
命の保証は無かったでしょうね。そうなると、私もこの世にいなかったかもしれ
ません」 という申の言葉に、改めて歴史の暗部を考えさせられた。
 恐らく、申の一族は相当高い地位にあったのだろう。そんな彼らは貴族的な
ブルジョアとして、真っ先に槍玉に挙げられたに違いない。

「そういうわけで台湾に移り住んだんですが、我々のように大陸から移住した、
いわゆる外省人と、以前から台湾に住んでいた本省人との関係には今でも微
妙なものがあるんです。そのあたりの話もまた、いずれ・・・。
 私の祖母などは、蒋介石と一緒に移住したというのが唯一の誇りで。大見得
切って言える話じゃありませんけどね。・・・おっと、つい脱線してしまった」
 
「いえ、勉強になります。そんな歴史があったんですね、知りませんでした」

 申はアキラの賢明な表情を見てとると、「実は」 とおもむろに話題を変えた。




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