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help RSS Hommage 『ヒカルの碁』 太極之譜 7-17

<<   作成日時 : 2010/09/07 00:04   >>

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 行洋は部屋の時計をチラと見ると、少し思案してから言った。

「うむ、今日はもう遅いな。アキラ、明日の予定は?」 
「明日は一日休みです」 
「では、久しぶりに朝から一局打とう。それから話をしよう。いいね?」
「わかりました。では明日」

 その晩はそうしてアキラは自室へさがった。翌日曜日、朝食後早々にアキラ
と行洋は盤を挟んで向き合った。

「時計を使おうか。持ち時間は4時間。コミは6目半」 「え?・・・あの・・・」

 アキラは言葉を失っていた。これまで、父とそれほどの長丁場を戦ったことは
ない。行洋はアキラに対局時計を準備させた。

   《時計?・・・4時間?・・・あっ! 十段戦挑戦手合いと同じだ!》

 行洋が白石を握ると、アキラは震える指で黒石を一つ盤上に置いた。

「2・・4・・5。うむ、アキラの先番だな」 「はい。おねがいします」

 こうして、アキラと行洋の真剣勝負が始まった。それは正に、アキラにとって
初めての挑戦手合いと言って良かった。
 朝の8時から、行洋は時折休憩をとりながら、アキラは一心不乱に先を読み
ながら、息詰まる攻防が展開する。

 そして ――、双方互角の内に、持ち時間をほぼ使い果たして終局となった。

 もう午後も遅い。死力を尽くして戦ったアキラは疲労困憊していたが、経験し
たことの無い達成感で全身が震えるように満たされていた。

「半目・・・だな」 「はい・・・ありがとうございました」 

 アキラは深々と一礼して、静かにため息をついた。

「疲れたかね?話はまた、後にしようか?」 行洋はアキラを気遣った。
「いえ、ボクは大丈夫です。お父さんこそお疲れなら、また後日にでも・・・」
「いや、私のことはいい。では、少し話をしようか。お茶を淹れてくれないか」

 アキラが台所から戻って来た時、行洋はいつもと変わらぬ様子で悠然と座し
ていたが、さすがに疲れたのか、その体躯には力が無かった。そしてアキラは
唐突に、父が歳をとった、と思った。

「私がなぜ引退したか。そうだね、話せは長い話になるが・・・」 

 明子が淹れたお茶を飲みながら、行洋は語り始めた。

「引退を考え始めたのは、もうずいぶん昔のことになる。ある意味では、初めて
タイトルを取った時かもしれない。タイトルホルダーとして得意の絶頂にいても、
その地位はいつ奪われるか知れたものではない。どれだけ碁界の頂点に居
座ったとしても、いずれは私も歳をとり第一線から退くときが来る。自分の引き
際をどうするか、その思いがその頃から、常に心の奥底にあった。
 ひとたび頂点を極めても、それはいつ崩れるかもしれない砂上の楼閣に暮ら
しているようなものだ。だが、だからこそ、私はその地位に、名誉に執着した。
私にとって、収入など大した意味はない。それは勝てば自動的に付いて来る。
しかし、タイトルホルダーという称号は別だ。その魔力にとりつかれると、もう
他のことが見えなくなってしまう・・・。毎日が名誉と称賛に包まれて、私は目
が眩んでいた。いつの間にか、碁を打つ楽しみは地位と名誉を維持する喜び
にすり替わっていった。・・・恐ろしいことだ」

「タイトルを取れば取るほど、その呪縛は私を苦しめた。来る日も来る日も、地
位を維持するためだけに碁を打つようになってしまった。タイトル戦と言っても、
いつも同じような顔ぶれで、それはそれなりにレベルの高い碁ではあったが、
変わり映えのしない、つまらないものに思われた。名人よ、最強棋士よと誉め
讃えられて常に上座にいると、次第にそれが当たり前になっていく。だが・・・
本心ではもっと自由に、若手の棋士とも海外の棋士とも打ってみたいと思って
いた」

 思いもよらぬ父の告白に、アキラは身じろぎもせず聞き入っていた。

「何のために碁を打っているのか、私の望んでいたものは何だったのか・・・。
そうして思い悩む内に、私は突然深い闇の中にいることに気付いた」

「 !!! 」 ・・・闇夜だ・・・お父さんはやっぱり、魂の闇夜にいたんだ・・・。

「苦しかった・・・。平静を装いつつ、日々を何とかやり過ごした。悟られぬよう
に碁を打ち続けたが、頭の中にはいつも、“手放せ” という声が聞こえていた。
誰ともわからぬその声に私は抵抗した。自分の正気を疑いながら、たった独り
で絶望の淵に立っていた。その苦しみは経験した者にしかわからぬ。
 それから何年も、私は心の闇を見続けてきた・・・そして、とうとう緒方君と戦
う日がやって来た」

 淡々と語る父の言葉に、アキラはまた、“意味ある偶然の一致” を見出して
首を傾げた。
           《 “手放せ”・・・“手放せ”・・・? 》

「縁あって、緒方君が私の弟子になってから20年。可愛い弟子ではあっても、
その存在は次第に脅威になっていった。あの時、緒方君とタイトルを争う状況
に至ったことが、もう運命であったとしか言いようがない。・・・私は考えた。
 この十段を落としたら世間はどう思うであろうか。弟子にタイトルを奪われて、
笑い者になるのではなかろうか。そして何より、塔矢行洋の時代は終わった、
そう思われることが耐えられなかった。今思えばつまらぬ意地だ」

 アキラはうなだれて、じっと父の言葉を聞いていたが、その思いは複雑だっ
た。アキラも一人の棋士として、タイトルホルダーの気持ちや、追われる者の
苦しみを想像してみることはできる。だから、別に驚くような話ではないにして
も、それをよもや、目の前の父から聞こうとは思わなかった。できることなら耳
を塞いでしまいたい。尊敬する偉大な父、唯一の目標だった父もやはり人の
子なのだ。自分が抱いていた理想の棋士像は単なる偶像に過ぎなかったの
ではないか、そう思うといたたまれない。
 
「そしてあの夜、緒方君との勝負を間近に控えて、眠れぬまま私はまどろんで
いた。その時、また夢の中で声を聞いた。“失って嘆くものなら、自分から捨て
てしまえ”、と・・・。そしてその朝、私は倒れた」

「 !!! 」 ・・・“失って嘆くものなら、自分から捨ててしまえ”?・・・そんな !?

「気が付いた時には、私は自分の身体を抜け出して、お前と明子が私の枕元
に座っているのを上から眺めていた。そうして、私は“あちらの世界” を見てし
まったのだ。光に溢れた至福の世界を・・・。
 だからアキラ、私にとって死は恐ろしいものでも忌むべきものでもないのだ。
あのまま逝ったとしても、何の後悔もない。それほど、その経験は私の心を魅
了したのだ。・・・しかし、私はこの世に生きて返された。まだ、やるべきことが
残っていたのだろう・・・」

 そう言って、行洋は口を閉ざした。喉を潤している父に、アキラは言った。

「おじいさんが以前、言っておられました。お父さんは倒れた時、自分と同じよ
うに “あちらの世界” を見てしまったのではないかと。そうでなければ、引退
などできるわけがないと。そうだったんですね?」
「そうか、太田の父が・・・。うむ、確かご自身も病で命を落としかけたと、そう
おっしゃっていたから。・・・先生にも不義理をして、詫びねばならない」
「?」 アキラは父が祖父のことを、先生と呼んだことが不可思議だった。

「意識を取り戻してから、しばらくは夢と現実の境界を見失っていた。だが、次
の手合いは迫っている。私は気力を振り絞った。
 そこへ、あの者から対局の申し入れがあった・・・」
「あ、sai sai のことですね?」 アキラは声を上げた。

「私は始め、軽い気持ちだった。sai の名は聞いていたから、どの程度の者か
品定めをしてやろう、そのくらいの甘い考えだった。無論、私は自分が負ける
ことなどありえぬと思っていた。そんな、どこの馬の骨ともわからぬ輩に、この
私が負けたとあっては塔矢行洋の名がすたる。だから、万一負けたら現役を
引退する、そう決めた。無名のアマに敗れるような者が、碁界の頂点に未練
がましくしがみ付いていても仕方あるまい。
 しかし、私は誤っていた。ネットを通じて向き合っている sai は百戦錬磨の
剛の者だ。その気迫がひしひしと伝わってきた。にもかかわらず、私の心には
慢心がとぐろを巻いていた。私と互角に渡り合える者が、そうそういるはずが
無いと。その気持ちが知らず知らずに私を追い詰めた。そして、結果として私
は勝負を投げた」
「そんなことはありません、お父さんは十分に・・・」 アキラは首を横に振った。
「いや、そうなのだ。sai の強さに圧倒されて、しかるべき一手を見逃した。
その手に気付いてさえいれば、また違う展開があったものを・・・」 

「 !!! 」 ・・・お父さんも気付いていたんだ!進藤が気付いた、あの手に!

「あの者に負けて悔しかった。ここ数年、あれほど負けて悔しい思いをしたこと
はない。だが、あの手に気付いた時、私の心に一筋の光明が射した。私は決
してあの者に劣っていたわけではない。長い闇夜にいる間に、この目が暗闇
に慣らされて、光を見失っていただけなのだ。この私にも、まだ進むべき道は
残されている。私にしか出来ないことがある・・・そう思った。
 あの者は地位も名誉も望んではいない。どこの誰とも、本名さえ知れない。
ただ一心に私との対局を望んで、神の一手を極めようとしていた。私が望んで
いたのも、そんな碁だった。神の一手を求める本気の碁だ。
 負けて私は気付かされた。あの者のお陰で、私は夢の中で聞いた声の、本
当の意味を知ったのだ。私には自ら選択し、決断する権利がある。
 “失って嘆くものなら、自分から捨ててしまえ”・・・それは私の魂の声だった。
だから、私は引退したのだ」

 行洋は腕組みをしたまま遠い虚空を見上げていたが、その顔には澄み切った
叡智の光が湛えられていた。

「アキラ。私はこれまで負けて嬉しい碁を打ったことはない。どんな時も、sai
負けた時も、緒方君に敗れて十段を落とした時も、負けて悔しいその思いが前
へ進む力だった。だが、今日は違う。今日ほど負けて嬉しい日はない」

「お父さん・・・。持ち時間4時間・・・ボクに十段の挑戦手合いを打たせて下さっ
たんですね・・・お父さん」 

 アキラの両の眼から、ハラハラと涙がこぼれ落ちた。


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内 容 ニックネーム/日時
ついに父に互先で勝利したアキラに拍手を送ります。これで父親を上回ったとは、まだ言えないでしょうが、とうとう同じ領域に一歩を踏み出したのは間違いないですね。初のタイトル獲得なるか?

十段戦の予行と息子への告白を同時に行う。行洋パパは囲碁も説教も濃密ですね。
雲の上にいるような偉大な人でも、人間らしい俗な悩みを持っている。その悩みが聞けたときはいたたまれないと同時に嬉しくもあります。自分を信頼して特別に話してくれたということ、偉大な人でも自分と変わらない悩める人間だという安心感。
実は“親父の説教”って好きだったりするんです。世間的には子供を否定したり押し付けがましいものも多いようですが、そういうのとは違う、自分の生い立ちや苦悩、哲学などを語るのは何度聞いてもいいです。
アッキー
2010/09/08 23:35
アッキーさん、コメント有難うございました!
名人・本因坊・棋聖と3大タイトルは賞金レベルでの「3大」ですが、私は十段が一番好きな棋戦です。何と言っても全棋士参加で唯一敗者復活戦があり、一日で打ち切る最長4時間の挑戦手合い!若手にもチャンスあり、という点で、同じ4時間制でも資格制限(五段以上)のある碁聖より面白いです。そう言えば、緒方は十段と碁聖を持っているんでしたね。その辺りに緒方の性格設定が見えます。封じ手ありの本因坊戦で負けていますから、2日制には向かない性格(短気)?
行洋はどんな時でも手加減したりしない人なので、本気で打ってアキラに負けた、ということでしょう。日ごろの練習手合いとは違う勝利に、アキラの成長を感じ取って頂ける場面ではないかと(自画自賛!?)。
そう言えば、アッキーさんはお父様と哲学談義をなさるんですよね?いいですねぇ。何だかうっとうしい我が父でしたが(笑)早くに亡くしましたので、いま世にあれば・・・と思うことしきりです。“親父の説教”を聞いてみたいものです。そう、いつまでもあると思うな親とカネ、とはよく言ったものです(カネは今も昔も無いけれど)。若いアキラがどこまで父の思いを受け止めることができるか、書き手の自分が心配したりして。
さて、7章もいよいよ大詰め。創作前半(まだ半分かよ!?)のクライマックスかな?あれこれ書いて本当に疲れました(この程度で?{%汗(チカチカ)hdec%})。
次章からは北斗杯が始まります。注目の高永夏登場でワクワク。アキラの嫉妬爆発か!
クレール
2010/09/09 09:14

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